INSIGHT|GRASP考:キノコの後で考える──採集的時間意識の心得 文=工藤沙希(ヨコク研究所)

ヨコク研究所+MUESUM+吉勝制作所により、2022年春にスタートしたGRASPプロジェクト。2年間の活動を振り返り、GRASPが示す構えとはなにか?を考えるべく、GRASPメンバーのヨコク研究所員がテキストを書きました。

なぜ「待ち合わせ」ができるのか

私たちはごく日常的に「待ち合わせ」という行為を行っています。それは家族と一緒に夕食を取ることであり、週末の友人とのドライブの予定を立てることであり、あるいは数百キロメートル離れた取引先の元へ商談の時間に間に合うように向かうことでもあります。〈GRASP〉と名付けられたこの“プロジェクト”では、山形・左沢にある吉勝制作所のアトリエが活動拠点のひとつになりました。ある日、東京や大阪に暮らすメンバーが新幹線や電車やタクシーを乗り継いで予定時間通りに(多少の遅れはあれど)たどり着き、月山のふもとの山で採集したカワラタケを煮出したお茶を一緒に飲んでいるとき、私にはその光景がたいへん不思議なことのように思われました。会社員の“業務”としての出張モードであれば、たとえ何時間・何百キロの移動であってもこんな違和感を感じることはないのに、個々がバラバラに待ち合わせて遠くで集合している状況にふいに疑問を感じる余地が、この活動のなかにはあるらしいのです。

「project(プロジェクト)」という言葉は、ラテン語の「proicere」が語源とされています。proが「前へ」、iacereは「投げ出される」を意味します。「前方に投げ出す」というこの意味は、転じて15世紀頃から「projecte」として、「計画」「下書き」「案」「設計」の意味で用いられるようになりました。つまるところ、プロジェクトとは前方、未来に向けて設えるものなのです。そのことを哲学者の鷲田清一は著書のなかでこう書いています。

proということばで表示されるこの〈前のめり〉の時間意識は、近代の社会経営をめぐるさまざまの場面に浸透しているものであって、たとえば近代の歴史観にとって本質的な意義をもっている「進歩」(progress)という観念や、産業資本主義における「起業」(project)という観念、さらには企業計画や計画経済における「プログラム」(programme)という観念などというふうに、この接頭辞はひじょうに多角的にもちいられる。とともにそれは、近代社会を生きる人びとの生活意識をひじょうに深い部分にまで規定してきたエートスでもある
──鷲田清一『だれのための仕事労働vs余暇を超えて』岩波書店(1996)

日本の文化圏における直進的な時間意識は、古代王権が歴史という系譜のなかに権力を位置づける過程で生まれました。神代史や暦の制定もそのひとつです。それに対し、覇権的ではないヴァナキュラーな民間の時間意識は、季節、太陽と月、農事などに基づく円環的なもの、あるいは反復的なものとしてしばしば位置づけられます。明治期以降の近代産業化によってより抽象的に計量可能になった「時間」という概念は、一般化された高度な分業体制を可能にしました。私たちがどんなに遠くの相手とでも「待ち合わせ」を行えるのは、時間という対象を抽象化して取り扱うことができるからだといえます。proという語が示す前のめりな意識も、抽象化された時間のなかにあります。私が感じた「待ち合わせ」への違和感は、この計量可能な時間と未来への投機への違和感でもあったわけです。

〈GRASP〉という試みは、前のめりで直線的な「プロジェクト」とは異なる、非-直線的・非-設計的・非-目的的な時間意識の実践でもあります。かといって、ある方法を円環的に繰り返し続けるのでもありません。山歩きのなかでたまたま拾ったもの(キノコ)からその使い道と加工の仕方(お茶)を考えるように、採集という試みによって、私たちはくねくねと蛇行した道筋のなかで、偶然的に結果を手に入れ、そこから目的を考えはじめます。それは実際に山や街に入って物を拾い集めることであったり、「そういえば……」と全然主題に関係のないことを話し始める議論の場であったり。とにかくゴールに向かって直線的に進まない方法を常に取り、そのなかで得られたことから次の一手を考えるという方法だけは一貫していました。時に、集めたものの量や質、種類によって次の着地点が変わることももちろんあります。

こうした採集的な時間感覚は、科学者が行うフィールドワークにもしばしば見られます。川喜田二郎(1967)が言うところの「仮説検証型」に対する「問題発見型」──すなわち、調査者自身がフィールドで予想もしなかった出来事に対峙しながら、その都度即興的に仮説を更新していくという研究手法は、その意味でまさに「問いの採集」のような姿勢だといえます。足元に落ちているものに応答しながらそれらを集め、個別の点から導くように全体を掴む姿勢は、およそ確からしいことが未来に見出せない世界にあっても、事前に設定した目的地ではない、その都度更新される場所へと私たちを導いてくれます。

時(トキ)と間(アイダ)

ここで「時間」を構成する「時(トキ)」と「間(アイダ)」という民俗語彙にも、改めて目を向けてみようと思います。民俗学者・宮田登の『日和見』(1992)によれば、熊本県葦北郡に山仕事に関わる人々の「トキマツリ」があるように、南九州一帯に「トキ」という語にまつわる祭りが報告されています。また、仏教用語の「斎(とき)」や法会が行われる「御斎日」から転じて、正月の十六日の「トキ日」に見られるように、一昼夜飲み食いをしない物忌みの日が存在します。ここからわかるのは、「トキ」とは日常と非日常の時間が移行する境界を示しているということです。他方で「アイダ」とは、節目ではない日常を示します。つまり「トキ」と「アイダ」は、おおむね「ハレ」と「ケ」の関係にも対応する語であることがわかります。日常(アイダ、ケ)を分節する非日常(トキ、ハレ)の繰り返しによって、多くの民俗的な“時間”意識が構成されてきました。

私たちは、メンバーや活動に共感するメイツ(仲間)による採集行為を経て生まれたアニ
メーション映像を、鑑賞会というかたちでゲストに公開しました。これはある意味での「トキ」、つまり非日常の場だといえます(展覧会もまたこのひとつに含まれるでしょう)。日常、すなわちアイダの採集的な探索活動によって得られた偶然の結果を基にその目的地を都度更新すること、それでいて迷子にならないよう、トキオリ目印の杭を打つように非日常的なハレの舞台を設けて“その時点での”状態を他者と共有・確認すること。これが〈GRASP〉的な時間意識の実践であると、ひとまずは言うことができるのかもしれません。

暗闇に耐えること、事後的に意味を与えること

ところで、採集的な時間のなかに留まることは、必ずしも常に快適でポジティブな状態とはいえません。目的と、そこまでの道筋が明るく照らされた“プロジェクト”的な時間意識の方が、よほど安心して進むことができるでしょう。採集とは、行き先不明の闇のなかでその都度灯りをつくっては、足元に落ちているものを手がかりに次の一歩を踏む場所を決めるような、不安と隣り合わせの試みです。そこは、かつて詩人のキーツが書き残し、精神科医ビオンが再発見した「ネガティブ・ケイパビリティ(不確かさや不可解な状態のなかに留まることができる力)」の姿勢が求められる領域でもあります。ことpro的な前のめりの時間のなかに生きる私たちにとって、これは少々難儀なことです。採集的な探索活動は、このケイパビリティをなんとか身につけようとする試みでもあります。

鑑賞会のなかで設けられた視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚に作用する7つの視聴体験のうち、数分間の真っ暗闇と静けさを経たあとでの鑑賞は、まさに不確かな状態に耐える構えを身体的に経験するものでした。どこまで続くかわからない、その後に一体何が得られるかもわからない、果ては自分が誰なのかも曖昧になってくる──暗闇に耐え続けることは、実に心細い経験です。しかし、会場で最後に行われた参加型アテレコの雰囲気は、その正反対といってもよいものでした。1回限りの録音という緊張、参加者全員に突然充てがわれたセリフや効果音、即興的に音を出すという身体感覚が入り混じった熱気がホール全体に立ち込め、そこにいる全員が同じ皿で食事を取ったあとのように暖かな笑いと一体感に包まれました。

この鑑賞会の場は、ハレの機会であると同時に、ある種の「通過儀礼」のようなものと解釈することができそうです。つまり、「歩きまわりながら」「片腕をまっすぐ上げながら」ウェルカムスナックを食べてください、という奇妙な指示によっていったん外界の日常と分離された参加者は、アニメーションの鑑賞という自他の境界も曖昧で不安定な過渡的時間を経て、再び最後にアテレコの熱狂的な共同録音によって一体となる。それによって、採集行為を表象したアニメーションの鑑賞を互いに経験したメイツとして再統合された、と言えます。

しかし、そのように意味づけることができたのは、その後の「鑑賞会ふりかえりオフ会」で参加者たちの経験を言葉にしてもらってからのことです。一寸先もおぼつかない採集的な時間のなかでは、その瞬間瞬間の出来事を、ふりかえって事後的な解釈によって言語化する必要があります。何の意味があるかわからないがとりあえず拾って集めておいたものは、ただ並べられただけではバラバラの素材にすぎません。そこに自ら意味を見出して充てがう行為こそが、私たち自身の志向、経験、感情、祈りを世界に染み出させるかけがえのない方法なのです。それはなんだか呪術や託宣と似たもののようにも思われますが、ここで求められるのは、占い師や神ではなく私たちが自ら解釈を与えることです。
定められた未来(そんなものが存在しないことは、すでにみなさんもわかっているはずですが)を推し量ってそのゴールに直進的に向かうことではなく、自ら足元のそれに意味を見出すこと。それは単なる予測ではなく意志を携えた「予告」的な試みであり、〈GRASP〉は、採集という暗闇をさまようような時間のなかで、ひたすら予告の実践に取り組んできたのだと思います。私自身もいま、この文章を書いたことでようやくそれらのことが腑に落ちてきたところです。

工藤沙希 / Saki Kudo
1991年青森県生まれ。コクヨヨコク研究所研究員。「選べなさ」「現代私祭」「社縁」への関心を軸に、民俗学的な視点でのフィールドワークを中心とした社会研究に取り組む。関西学院大学大学院社会学研究科 島村恭則研究室(現代民俗学)所属。