INSIGHT|プロジェクトの振り返り
プロジェクトの振り返り
自律協働のエクササイズでレジデントとして迎えた3名の方々と、それぞれ異なるスキルを培うためのプロトタイピングを実践しました。
Vol.1|未熟さを味わう人生ゲーム(和田夏実さん)
Vol.2|共鳴を運ぶ蛸みこし(野口竜平さん)
Vol.3|AIとともに紡ぐ予感(木原共さん)
最後となるこの記事では、エクササイズによって自律協働のスキルがどう高められたのか、もしくは、自律協働のスキルとはそもそも、高めるものなのかどうかなどについて、体験したメンバーそれぞれがプロジェクトを振り返ります。
場の「せい」にする|田中康寛
自律は協働的に揉まれて育まれる。このような「自律協働」のあり方のひとつを身体的に授けてくれたのが今回のエクササイズであった。私はどちらかといえば主体的に発言・行動することが得意ではない。そのような私にとっても、ゲーム・蛸みこし・AIが触媒のように他者との対話を活性化させ、主観的な言動を発露させたように思う。これは触媒が共通の話題になったからという単純な話ではない。ある意味、その触媒たちの「せい」にすることで、言い換えれば触媒たちと協働することで、自分の思想や夢、未熟さを解放しやすくなったのだと思う。「AIが私の将来の不安を漏らしてしまったのだから、包み隠さず話してしまえ」といった具合に。それによって仲間の主観的で本質的な言動が引きだされ、相手をもっと知りたいと願うことで、集団での協働が育まれていく。そういった何かとの協働から自律性が場に放たれて、さらなる協働と自律が何重にも編まれる様子をエクササイズから感じたのである。私にとっての自律的な行動は、無な状況から生まれにくく、仲間や共同体のしぐさとの連鎖的な交わりから芽生えるのだろう。そういう意味では、自律協働のスキルなるものは、個人的なものというよりは集団や場のスキルなのかもしれない。
田中康寛(ヨコク研究所 リサーチャー)
至らなさの包み方|工藤沙希
祭りで担がれる神輿は神事におけるカミの御霊の移動手段とされ、大事な何かを運んでいる意識が担ぎ手にも共有されるものです。しかし、すかすかの骨組みだけでできた〈蛸みこし〉には当然そのような台座はありません。組織をミコシのように考えると、「カイシャ」のような大きな存在がソリッドに象徴され、匿名性の強い集団としての担ぎ手がそれを動かすのが “御輿(神輿)” 的な組織だといえます。一方〈蛸みこし〉では “みこし” それ自体の存在感は薄く、それらを担いでいる “個” があらわになります。一人ひとりが動き回って柔軟に互いのカバーができるけれど、逆に下手な動きをしていることも周りにすぐバレてしまう。個々の弱さを匿名性の中に紛れさせるか、オープンにさせて互いに補い合うか。後者の組織のあり方を選ぶとするなら、まずは自分と周囲の “弱さ” を開示し、認めあうことから話をはじめる必要があります。
そのときに〈未熟さを味わう人生ゲーム〉はよいきっかけになるかもしれません。自分が主人公でありながら、生まれる場所、家族、仕事までもがサイコロによって決められる人生ゲームは、「何にでもなれる」人生の更新可能性を示唆します。しかし、わたしたちは本当は、自分がこの現実世界で「何にでもなれる」わけではないことは分かっているはずです。むしろこのゲームの設計の優れているところは、自らの過去を他人に差し出す生々しい語りを介さずとも、ゲーム内で起こる突拍子のないフィクションとそこでの行動から、その人にとっての人生の選択の合理性が見えてくる点です。親密圏の外にいる他人への自己開示には痛みが伴います。これは、そうした痛みを避けつつ、遊びのフィクションを介して間接的なライフ・ヒストリーを聞く手法とも捉えることができます。
サイコロを振るような遊びを伴うフィクションとは打って変わって、AIを用いた〈明日たちの日記 Diary of tomorrow(s)〉では、過去の行動データや人生の価値観に基づき、あまりにも具体的で “ありえそうな” 自分の未来の予定が、こっくりさんの10円玉さながらに自動で動くプロッターからお告げのようにもたらさます。それはまさに占いを思い起こさせるものです。しかし、占いの技術はいかに具体的な結論を言わずしてその神秘性を保ちつつ相手をケアするのかというところにひとつの肝があるわけですが、このAIによる日記は非常に詳細かつ、ときに残酷です。私たちはカミや占い師のような神秘性を投影してAIの出力をお告げのように受け取るのではなく、あくまで自らの選択を前提に、その選択肢を拡張させる技術として “書かせこなす” 必要があることをこの日記は示唆しているように思われます。
個の至らなさを誰が/何が包摂しうるのか、それは組織なのか、他人なのか、あるいは神秘性を孕む何かなのか、という疑問は、これらのエクササイズを通して常につきまとってきました。個人が自律する社会の弊害としての自己責任的志向をどのように取り扱うのかは、自律協働に向けた問いのひとつです。私は、西洋科学と近代化によって影を潜めた神秘性がもつ包摂の力は、東アジアから自律協働を考える上でも手がかりになりそうな予感がしています。組織的に統括・運営される宗教への信仰とはまた異なる方法で、個人の選択の指針づくりや意味付けができるとすれば、あけすけな “弱さ” の開示とは異なる、何かオルタナティブな包摂の仕方が見つけられそうです。みこし、人生ゲーム、日記(そして占い)は、それらの中に自ら身を投じて考えるメタファーとしてもおおいに役立つものであったように思います。
工藤沙希(ヨコク研究所 リサーチャー)
往復とジャンプ|中村寛
人類学者はたいてい、ひとりでフィールドワークに行き、帰ってきてからもひとりで振り返り、ひとりでなにごとかを書く。研究会などで話し、仲間と議論することはあるけれど、基本的には、フィールドに入り、信頼関係をつくり、活動に参加しながら記録するという「往路」も、フィールドから戻って、経験を振り返り、問いを立て執筆するという「復路」も、ひとりでおこなう。
経験者は誰でも知っていると思うが、論文やエスノグラフィなどの作品をアウトプットとして期待されている人類学者にとってのフィールドワークでは、「往路」と同じかそれ以上に、「復路」が重要になってくる。「復路」において、多種多様な観点からフィールドでの経験を振り返ることで、それらをどれだけ豊かな源泉にしていくことができるか……、出会った他者や出来事のうちに感覚されたことがらをすくい取り、それらを表しだすのにふさわしい概念や語彙や文法を、どれだけ丁寧に、繊細に、きめ細やかに練り上げられるか……。「復路」ではそういうことが試される。表しだす語彙や文法が貧弱だと、出会った他者やことがらーーそれらの豊かさーーは、少なくとも作品上では、小さく、静かに、殺されていくことになるかもしれない。
それに対し、今回のように、チームでフィールドワーク/ワークショップを重ねるプロジェクトでは、それぞれのフィールドでの経験を、何度も一緒に振り返る。そうした協働のプロセス自体が、私にとっては新鮮で、有意義に感じられた。単著の多い人文・社会科学の世界では、良くも悪くも、「孤独な」作業が待っているけれど、こうした集合的なフィールドワーク/ワークショップを学問世界に取り入れていく可能性が、大いにあるのではないだろうか。
同じ場所にいて、同じ時間を共有した場合、そのメンバー間で共有された体験は、ひとつの事象に見えるかもしれない。けれども、個々の知覚を経て身体化される経験は、決して一枚岩の定点データではなく、それ自体がうごきのあることがらとして生起する。個々人が学習し、身体化した(したがって、それぞれに「偏り」のある)認識のフレームワークを通じて、ひとつの星座のように結晶化する。だから、いつ、どこで、誰と、どのように振り返るのかによって、歩いて見て聞いたことがらが生成変化する。
このあたりが、協働的なフィールドワークの醍醐味でもある。そして今回はそれに加え、振り返るプロセスに、デザインワークショップ的なワークをはさむことで、異なるフィルターを通して思考を揺さぶり、ジャンプさせていった。最終アウトプットが、論文や著作などの文章作品だけではないという点も、今回のプロジェクトの面白さだった。
未来の働き方/生き方を想像し、ヨコクするうえで浮上した「自律協働」というコンセプト。それを具現化するとき、どのようなスキルが必要なのか。そのスキルを抽出するべく、対話形式のワークショップを重ねた。発散的にアイディアを出すときは、言葉だけでなく、非言語的なイメージが役立つことがある。そんなわけで、動物が喚起するイメージを触媒にし、スキルを言語化していった。収束のプロセスでおこなったのは、それぞれに出したキーワードを関連させ、それらを集約して抽象化する作業だった。
言葉とイメージとを往復するなかで、参加メンバーにも自分自身にもしつこく問いかけたのは、どういう未来を望むのか、本当にそういう未来でよいのか、という点だった。未来の「生きる営み」を具体的にイメージしてはコンセプトとして抽象化し、さらにそれらを身のまわりの具体像のなかに落とし込んでみる。個別具体的に考えてはそれを一般化し、さらにそれをもう一度、一人称や二人称の個別ケースのなかで考える。そういった往復運動だ。
「自律協働」のスキル抽出の作業のなかで、「スキル」という言葉への違和感が口にされるようになった。そのこと自体が、大きな成果だったと私は思う。
「自律協働」というコンセプト自体に、近代以降の国家や経済システムのなかで生み出されたり強化されたりしてきた考え方を超えるなにかが含まれているように感じられたのかもしれない。たとえばそれは、「懐かしい未来 ancient futures」や「プレイング・セルフ(あそびのある自己)」のように、歪みや亀裂を体現/修復するべく「ねじれ」を含んだコンセプトに近いようにも思える(cf.ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ(鎌田陽司監訳)『懐かしい未来ーーラダックから学ぶ』 山と溪谷社、2021. アルベルト・メルッチ(新原道信・長谷川啓介・鈴木鉄忠訳)『プレイング・セルフ――惑星社会における人間と意味』ハーベスト社、2008.)。そしてそれがゆえに「自律協働」を、「スキル獲得」や「能力開発」「エクササイズ」といった、能力主義に基づく目的論的な響きをもつ言葉と掛け合わせてしまうと、なにかが決定的にうしなわれていくように思えたのかもしれない。
「自律協働」の具現化に必要不可欠な力として、「未熟さ」というキーワードが浮上したのも、同じ理由からだったと考えられる。「未熟さというスキルを獲得し、競争に打ち勝つために日々努力を重ねる」と口に出せば、この組み合わせへの違和感と面白さ、意義深さに気づくだろう。また、ひるがえってそれは、現時点で私たちが身体化してしまっている語彙や文法、文化の偏りを射抜く。どうやら私たちは、「未熟さ」を能力としては認めない社会に生きているようだ。
「未熟さ」を具体的に深く識ることは、学習プロセスの必須要件でもある。なにごとかを深く識ることは、なにを識らないのか、なにを識りえないのかを識っていくということにほかならない。また、「未熟さ」を乗り越えるのではなく能動的に認めあうことは、自らの生命活動が、普段は意識しない他者や非人間をも含めた存在との相互依存でしか成立しえないことを認めつつ、自律的に生きようとすることでもある。
関連するキーワードとして出てきた「巻き込まれる」も同様である。通常、なんらかのプロジェクト推進においては、「いかにして巻き込むか」という点ばかりが強調される。けれどもこの言葉は、「巻き込まれる」側の力に注目する。受動か能動か、という問いの軸を超え、“
受動的であることの能動性” を自覚させてくれる概念なのだ。
今回の一連のプロジェクトは、そんなことに気づかせてくれるものでした。
中村寛(多摩美術大学美術学部リベラルアーツセンター/大学院 教授、アトリエ・アンソロポロジー合同会社 代表)
鎧を脱いでみる|田村大
己の未熟さを実感しながらもう一人の自分を生きた「未熟さを味わう人生ゲーム」、誰がリードするわけでもなく、阿吽の呼吸で深夜の温泉街を練り歩いた「蛸みこし」、AIとの対話から、5年先の1ヶ月の予定を悩みつつ選んだ「明日たちの日記」。
「自律協働」という、分かるようで分からないこの言葉をどう実践していくのか。3人の若きレジデントに共通した提案は、今の自分ではない自分を生きる体験ということではなかったか。僕らは、職場や学校、住まう土地など自分を取り巻く環境に大きな影響を受け、行動や思考、価値観の鎧(よろい)を着込んでいる。鎧を着たまま新たな実践に挑むのではなく、まずは鎧を脱いでみる。その上で、自分が別の世界でどう生きるのかを思案し、行動する練習を積むのだ。現実世界でも自由自在に鎧を脱ぎ着できる自律性を身につけたら、他者との協働もぐんぐん進んでいくだろう。
当初、コクヨの未来研究所であるヨコク研究所が、コクヨの企業文化を変えていくことがこの活動のゴールなのだと考えていた。「企業研究所の役割」という鎧の中で、僕自身が無自覚に思考したことだ。しかし、「生き変わる」実践が社会に広がることに向かえというレジデントたちのメッセージは、ヨコク研究所の進む道への重要な示唆になる。生き変わるための道場。なんとも魅力的じゃないか。
田村大(株式会社リ・パブリック 共同代表)
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1年にわたり、3人のレジデントとともにプロトタイピングしてきた「自律協働のエクササイズ」。自律協働社会におけるスキルや振る舞いを、対話と試作、そして身体を通じて考え、培ってきました。
ありたい未来に向けて一人ひとりが試行錯誤し、さまざまな経験を積み重ねていく。それらが束になることで、組織や社会のありようを少しずつ変えていく、かもしれない。その繰り返しこそが自律と協働であり、決して終わることのないプロセスなのではないでしょうか。
「自律協働のエクササイズ」は一つのきっかけです。これからも引き続き、頭も身体も動かし続けていきましょう。